詩人、小説家として活躍した島崎藤村。

現在の所在地でいう岐阜県中津川市に生まれ。明治30年に刊行した第一詩集『若菜集』は、日本近代詩の原点として後世の詩人に多大な影響を与えました。そして、小諸義塾の英語教師として小諸に居住地を移し、「もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか」と自らに問い、小諸にて文学者となることを決意します。明治39年に発表した『破戒』によって、小説家としての地位を確立し、大作『夜明け前』を生むこととなります。

その藤村が、小説家として歩み始めた際に小諸に住んでいた時を、小諸時代と言われています。

 

島崎藤村が通った小諸の「大和屋紙店」

島崎藤村は原稿を書くにあたって、小諸からも近い信州の内山でつくられた障子紙を切った紙を原稿用紙として使っていました。

その紙は内山紙と呼ばれ、小諸の北国街道沿いにて今でも営業をしている大和屋紙店で購入していたそうです。

現在では、その原稿用紙は売られていないものの、内山紙は販売を続けているそうです。

大和屋紙店は、創業160年の老舗で、手を加えられているものの江戸時代からの商家の風格を保っています。

当時の大和屋紙店

大和屋紙店:http://members.ctknet.ne.jp/yamatoya/

 

雪晒しで透明度の高い「内山紙」

島崎藤村が愛用した内山紙は、雪深い奥信濃で作られる手すき和紙です。

内山紙

雪深い環境から生まれた「雪晒(ゆきさらし)」と呼ばれる技法を使うことで、丈夫で透明度の高い紙をつくることができます。

「雪晒(ゆきさらし)」とは、寒く積雪が安定し気温がもっとも低い時期に、楮(こうぞ)の皮を雪の上に並べて晒すことを言います。

この技法を使うことで、太陽の紫外線と雪の水分からオゾンが発生し、楮の繊維が白くなります。

和紙は手漉き後に日干しすることで白くなりますが、内山紙は楮の時点から繊維を白くすることで薬を使わずに実現しています。

これにより、よい障子紙の代名詞とされています。